宙ぶらりんな僕たち

10月6日。DEAD OR ALIVE
家入一真 2026.10.07
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長い1日だった。夜は南青山の赤い部屋へ。ワインを飲みながら、常連の友人たちと、映画監督の話になった。

僕はかつて、某誌でさまざまな映画監督と対談する連載を持っていた。

ある監督との対談で、印象的な言葉があった。

「僕はね、他の芸術的な監督たちと違って、商業監督なんですよ。たいてい予算の厳しい映画で、僕が呼ばれる。そして、僕はその予算内にキッチリとおさめる。それこそプロだと、僕は信じてるんです」

正直、痺れた。

彼はアクション映画で名を知られた監督だ。爆破に次ぐ爆破、予算などお構いなしに派手な画を撮る人だと、勝手に思い込んでいた。その裏に、これほど静かな矜持があったとは。

会社を経営していると、予算の枠を越えてでもアクセルを踏み込むべき局面がある。読みを誤れば大怪我をする。それでも踏みたがるのが僕という人間で、だから、監督の言葉は少し耳が痛かった。

監督、と一言で言っても、そこにはそれぞれの哲学がある。

別の監督とは、主演俳優を交えて対談をした。その最中、俳優が泣き出した。泣いた、というのはまだ優しい言い方で、ほぼ号泣だった。

「すいません、役がまだ抜けていなくて……。思い出したら辛くて……」

撮影はとうに終わっていた。それでも彼の身体のどこかには、まだその人物が住んでいた。演じる、というより、その人そのものを生きていたのだと思う。監督は止めもせず、慰めもせず、ただ黙って、彼が落ち着くのを待っていた。

役になりきる、という話で思い出すことがある。

かつて経営していた会社で、全社集会などみんなの前で話すのがどうにも苦手で、先輩経営者に相談したことがあった。先輩はこう言った。

「社長という役になりきるんだよ。僕は家を出た瞬間に、社長役のスイッチをカチッと入れる。そうして一日を、社長として演じきるんだ」

なるほど、と思って僕も試してみた。けれど結局うまくいかなかった。スイッチなんてどこにも見当たらず、相変わらず社員の前で、滝のような汗をかきながらオドオドと話していた。

長く続けてきて分かったのは、そのやり方が合う人もいれば、合わない人もいるということだ。僕は良くも悪くも、等身大で不器用なままでしか立てない人間らしい。

役割に徹する人と、役割を演じる人。僕は、どちらにもなれそうもない。

役になりきることはできない。かといって、素のままで堂々としていられるほど図太くもない。社長らしく振る舞おうとしては汗をかき、等身大でいようとしては、どこかで誰かの期待する顔を探している。役と素のあいだで、僕はいつも宙ぶらりんなままだ。

ふと時計を見ると、とっくに日付が変わっていた。終電はもうない。かといって、朝まで飲み明かす覚悟があるわけでもない。帰るでもなく、残るでもなく、僕はグラスの底に残ったワインを眺めていた。

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