急に具合が悪くなる
出張に合わせて、映画「急に具合が悪くなる」を観た。
原作の書籍に感動し、映画ももっと早く観に行きたかったのだが、ようやく。監督は「ドライブ・マイ・カー」の濱口竜介。三時間と割と長め。もともとは、がんを患った哲学者の宮野真生子さんと、人類学者の磯野真穂さんが交わした書簡。手紙のやりとりという、映画にいちばんなりにくいはずのものを、要点を変えずに物語としてここまで仕上げたのはさすがだと感じた。
宮野さんの専門は九鬼周造で、九鬼の偶然論というのは、乱暴にまとめるとこういう話である。いまここにある現実は、あり得たかもしれない無数の「なかった世界」のなかから、たまたま立ち上がったものだ。その、なかったかもしれない世界と現実との接地面を、九鬼は「偶然」と呼んだ。
宮野さんがこの本でやったのは、自分の病を物語に回収しない、ということだった。なぜ私がこんな目に、と原因を遡っていく語り方がある。生存率が何パーセントで標準治療がどうで、という数字の語り方もある。一見正反対のようで、どちらも同じことをしている。まだ開いているはずの未来を、閉じてしまうのだ。だから彼女は「急に具合が悪くなるかもしれない」という宙吊りの状態を、恐怖としてではなく、可能性がまだ複数ある状態として引き受けようとする。
そして、この本自体がその実践になっている。宮野さんと磯野さんの出会いはたまたまで、出会わない世界だってあり得た。でも二人はその偶然に賭けて手紙を重ね、重ねるうちに「私たちはこのために出会ったのだ」というものに、あとから変わっていく。偶然を必然にすり替えるのではなく、偶然のまま愛する。宮野さんは刊行の直後に亡くなったが、最後の手紙まで、それを貫いた。
離れ業のように見える。でも、二人がやっていたことには、もっと古くからある名前がついていると思う。信じる。信じるというのは本来、確かめられないものに、確かめないまま、身を預けることだ。足を出せば前に進む、というような確実に証明されていることを、人はわざわざ信じたりしない。人が信じるのは、不確実なものごとだけ。なかった世界と現実とが接する、あの危うい際でしか、信じることは始まらない。根拠が尽きた場所での、分の悪い賭け。あの往復書簡は、その賭けを最後まで降りなかった記録なのだと思う。
なかった世界の反対側にあるこの現実を、選んだ世界、と呼ぶのは少し違う気がしている。選んだ、という手応えは、たいていどこにもない。気づいたらこうなっていた、という顔をして、現実はいつも立っている。現実とは、選ばれた世界ではなく、「そうなってしまった」世界だ。そして僕たちにできるのは、そうなってしまった世界のほうを、あり得たのに来なかった世界より、少しだけ好きでいることくらいなのだと思う。