今生き
末っ子の三歳の誕生日だった。三年、あっという間である。生まれたばかりの頃は、こちらの都合など一切通じない生き物という感じだったのに、いつのまにかすっかり人間をしている。嫌なことは嫌だと言うし、こちらの機嫌もなんとなく察している。上二人の姉に甘やかされて育っているせいか、要求の通し方がうまい。困った顔をすれば誰かが動いてくれることを、三年でもう学習している。末っ子感、としか言いようのない性格である。
誕生日ということで、近所の遊園地へ行った。乗り物がいくつもあるのに、末っ子はボートしかやりたがらない。同じところをぐるぐる回るだけのボートを、漕いでも漕いでも降りると言わない。漕ぐのは当然こちらである。結局、それで一日が終わった。明日、筋肉痛になりそう。
正直、漕ぎながら退屈していた。白目をむいていたかもしれない。
國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』にドゥルーズが出てくる。思考は自発的には始まらない、人が思考をするのは、現状の手持ちの枠組みでは処理できない何かに出会って、考えることを強いられたときだけだ。ドゥルーズはそれを「不法侵入」と呼ぶ。招かれざる客であり、だから考えることは原理的に不快なのだ、と。
人間は考えずにすむ方向へ向かって生きている。そのために、習慣がある。習慣とは、何を見て何を無視するかの設定であって、これがなければ毎朝ゼロから世界を組み立て直すことになる。ただし、習慣に完全に守られた状態は快適であると同時に、退屈でもある。何も侵入してこないから、何も起こらない。
そう考えると、三歳にはまだ習慣がない。だからボートに乗ることでさえも、例え二周目でも、ちゃんとした事件なのだろう。水の跳ね方も、群がってくる鯉の大群も、岸の見え方も、一周ごとに違うものとして彼女には届いている。侵入されっぱなしなので、退屈する暇がない。
僕のほうは「ボートに乗る」という既知の枠に入れ、ただ無心に漕ぐという処理をしていたから、五分で飽きてしまった。同じ湖の上にいて、片方だけが世界を受け取っていた。
こうして書いてしまうと、子どもは世界を新鮮に見ている、みたいな話に着地しそうで居心地が悪い。あの子だってこれから習慣を獲得していくし、獲得しなければ生きていけない。当然ながら、三歳はいずれ終わる。
「今生き(いまいき)」と言う言葉があるらしい。ラヴ上等でも聞いた気がする。将来の不安や過去の後悔にとらわれず、目の前の「今」この瞬間を全力で味わい、自分らしく生きる姿勢や価値観のこと、らしい。